東京地方裁判所 平成5年(ワ)17731号 判決
原告
後藤雄一
被告
世田谷区
右代表者区長
大場啓二
右訴訟代理人弁護士
橋本勇
事実及び理由
第三 争点に対する判断
一 〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。
1 世田谷区における会計事務については、会計事務規則が定められており、さらに、具体的な事務処理の方法については、昭和五六年に財務事務の手引が作成されている。
区長の交際費の支出は、資金前渡の方法(地方自治法二三二条の五第二項、同法施行令一六一条、会計事務規則八〇条)で行われているところ、世田谷区においては、総務課長が資金前渡職員として、前渡された現金の保管及び支出を担当し、支払を済ませたものについては、収入役に対して清算手続を行うことになる。
会計事務規則によれば、資金前渡職員は、支払をする場合は原則として領収書を徴さなければならないが、領収書を徴し難いものについては支払を証明する書類をもってこれにかえることができる(同規則八二条)とされ、支払を済ませた資金前渡職員は、清算書及び清算決定書兼通知書を作成し、証拠書類を添えて収入役に提出するのが原則であるが、その方法による清算が困難な前渡金については、収入役と協議の上、別に定める方法により清算ができる(同規則八三条一項)とされている。そして、財務事務の手引によれば、交際費については、その経費のもつ特殊性を考慮し、前渡金の清算書を収入役に提出するときに証拠書類の添付等を省略できるとされるとともに、添付を省略した証拠書類は支払月日順に編集し五年間保存しておくこととされている。
なお、世田谷区においては、昭和五一年四月に、従前の東京都世田谷区文書編さん保存規程を廃止して、新たに世田谷区文書管理規程(以下「文書管理規程」という。)を定めるとともに、その運用の基準として設定基準を制定した。設定基準には、金銭会計事務に要する帳簿について原告主張の基準が記載されているが、交際費に関する領収書自体の保存については特にこれを明記した規定はない。(〔証拠略〕)
2 ところで、世田谷区における区長の交際費の具体的な支出方法は、資金前渡職員である総務課長が、毎月初めにその月の所要額について資金前渡を受け、その支出を必要とする事由が生ずるごとに、執行担当者である秘書課長に必要額を渡して、支払をさせるのが通常である。そして、交際費については、その性質上、領収書を徴収することが困難であることから領収書を徴していないものと、領収書を現実に徴しているものとがあるが、このように支出した経費について、毎月末に、総務課長が、領収書のないものについては現実に支出を担当した秘書課長の作成した支払証明書を、領収書のあるものについてはその領収書を確認した上で、支払証明合計表を作成して清算書に添付して収入役に提出していた。そして、その際、財務事務の手引に従って証拠書類である領収書等の添付は省略されるのが通常であった。
また、右領収書は、総務課長が確認した後は秘書課で保管された上、清算手続が終了した後、半月程度で破棄されるのが慣行であり、右慣行は本件訴えがなされる二〇年以上前から、すなわち、文書管理規程及び財務事務の手引等が作成される以前から行われており、本件領収書も右慣行に従って破棄された。右慣行は、区長交際費の内容には機密性があり、監査の対象にもならないとの認識が被告の職員にあったことなどから行われるようになったものであり、文書管理規程、設定基準及び財務事務の手引が定められた際もこの慣行が特に改められることはなかった。また、本件条例が制定された後も、交際費に関する文書等は情報公開から除外されるとの認識等から、右慣行が改められることはなかった。
ところが、平成五年三月ころ、交際費に関する領収書の破棄がマスコミ、議会等で取り上げられたこともあり、同月分以降の領収書は保存されるようになった。(〔証拠略〕)
以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
二1 本件において、原告は、本件領収書の破棄が財務事務の手引等の規定に違反し、これにより、世田谷区の住民として精神的苦痛を被ったとして国家賠償法一条一項に基づく損害賠償請求を行っているが、同項に基づく損害賠償請求権が発生するには、公務員の行為により私人の何らかの法的権利及び利益が侵害されたことを要し、単に公務員が職務上の規律等に違反したことをもって、直ちに、それが国家賠償法上の違法な行為となるわけではないと解すべきである。
前記認定によれば、本件領収書の破棄が、少なくとも、交際費に関する領収書につき五年間の保存を定めている財務事務の手引の規定に反する取扱いであることは明らかである。しかしながら、財務事務の手引、文書管理規程等は、当該自治体における職員による財務事務処理の適正な執行を確保するため、その事務処理の要領等を内部的に定めたいわゆる訓令であると解され、これにより直接私人の権利利益の保護を図る趣旨のものではないというべきであるから、その規定に反する取扱いがあったとしても、職員が服務規律上の責任を問われることは格別、右規定違反をもって、直ちに国家賠償法上の違法な行為があったといえないことは明らかである。
なお、原告は、この点に関し、本件条例三条一項及び三項により、本件領収書の保存義務等が生ずる旨主張するようである。確かに、右各条項には原告主張のような記載があるところではあるが、その文言からすれば、右各条項は情報公開の対象となる文書等の具体的な保存義務を定めたものとは解し得ず、これをもって、私人に対する関係で本件領収書の具体的な保存義務が発生するものとはいえないというべきである。
2 次に、原告は、本件領収書の破棄により、世田谷区に対する不信感等が生じた旨主張するが、それが原告のいかなる権利利益の侵害に当たるというのかは必ずしも明確ではなく、仮に、原告にその主張するような感情が生じたとしても、そうした感情が生じたことによって、直ちに原告の国家賠償法上の法的保護に値する権利利益が侵害されたということができないことは明らかである。
3 また、原告は、本件領収書の破棄により、本件条例に基づく情報公開請求権が侵害された旨主張するかのようである。なるほど、本件条例による情報公開制度は、世田谷区の住民等に対して、一定の情報の公開を請求する権利を付与するものであるが、本件条例による公開の対象となる文書等の情報は極めて広範なものであることにかんがみれば、未だ具体的な公開請求の対象となっておらず、抽象的に将来公開請求の対象となる可能性があるというだけでは、その情報の破棄等があったとしても、これをもって、直ちに私人の有する具体的な情報公開請求権を侵害するものとはいえないというべきである。したがって、本件領取書の破棄の時点で、本件領収書が既に具体的な情報公開請求の対象となっていたと認めるに足りる証拠がない以上、本件領収書の破棄が直ちに原告の具体的な情報公開請求権を侵害する行為に当たるとはいえないというべきである(なお、弁論の全趣旨によれば、原告が、平成五年九月二日、本件条例に基づき、昭和六三年度分(ただし、同年一〇月一日以降)及び平成元年度分の区長交際費に関する領収書の公開請求をしたところ、被告により、文書の不存在を理由として領収書の公開を拒否する処分をされたことが認められるが、右請求の対象となったのは、本件領収書ではないし、いずれにしても、右請求は、本件領収書が破棄された後になされたものである。)。
4 もっとも、本件条例による情報公開制度の趣旨にかんがみれば、現に具体的な情報公開請求の対象となっていない文書等についても、例えば、文書等の管理者が、将来における情報公開請求の可能性を考慮し、専らその公開を回避する目的で文書等の破棄を行ったような特別の事情がある場合には、文書等の破棄行為が、私人の情報公開に関する法的利益を侵害するものとして、国家賠償法上の違法な行為となり得る可能性があることは否定できないものというべきである。
そこで、本件領収書の破棄について、右のような特別の事情があるか否かについてみると、前記認定のとおり、区長交際費に関する領収書を取り扱う総務課長等の職員においては、交際費は監査の対象外であるとの認識から、文書管理規程、財務事務の手引及び本件条例等が定められる以前から、慣行として区長交際費に関する領収書の破棄を行っており、右規程等及び本件条例が定められた後においても、交際費は監査の対象外であることから、交際費に関する文書は公開除外文書でもあるとの認識等から、特に疑問を持つことなく従来の領収書の破棄の慣行を踏襲していたことが認められる。このような事情に照らせば、被告の職員には、本件領収書の破棄に際して、特別にその公開を回避する目的等があったものとはいえないというべきである。
この点に関し、原告は、本件条例を制定する際になされた本件提言の内容を被告の職員は当然に知っているはずであること、各地で交際費に関する領収書の公開等に関する訴訟が提起されていること、また、昭和四〇年に東京都議会議長の交際費に関する監査請求において、領収書等の書類が廃棄されていたことは極めて遺憾であるとの勧告がなされており、これに応じて交際費の取扱いに関する自治省通達がなされていること、世田谷区においても、平成五年一〇月ころに広報課における会議費の領収書の取扱いが問題となっていることなどからすれば、本件領収書の破棄は、本件条例による公開を回避する目的であった旨主張するかのようである。
確かに、〔証拠略〕によれば、本件提言には、原告主張のような記載があることが認められる。しかしながら、区長交際費に関する領収書の破棄の慣行が二〇年以上も前から行われていたこと、被告の職員は、区長交際費の内容には機密性があり、監査の対象にもならないから、領収書等の区長交際費に係る文書が情報公開の対象にもならないと考えていたこともあって、本件条例制定後も、特に疑問を持つことなく従前の領収書破棄の慣行を踏襲していたことは前記認定のとおりであり、本件提言がなされた際に、特に交際費に関する領収書の取扱いについての考慮がされたような事情はうかがわれないこと、本件提言は、あくまで本件条例の制定、運用に当たっての懇談会による提言であり、その内容も特に領収書の保存等に関する考え方自体を明記したものでもないことからすれば、被告の職員が、本件提言によって従前の取扱いを改めなかったことをもって、公開回避の目的等があったと推認することはできないというべきである。また、本件領収書の破棄当時、地方自治体の長の交際費に関する文書等の情報公開を求める訴えが各地で提起されていたが、その開示の要否については必ずしも司法判断が確定した状況にあったとはいえないことは当裁判所に顕著な事実であり、〔証拠略〕によれば、世田谷区においても、支出命令書、清算決定書等はともかく、少なくとも領収書に関しては、これを公開しない運用であったことが認められることからすれば、被告の職員が本件領収書の破棄当時なお交際費に関する文書が公開の対象とならないと考えていたこと自体は直ちに不自然であるとまでいうこともできない。さらに、〔証拠略〕によれば、昭和四〇年の東京都議会議長の交際費に関する監査報告書において、勧告要望事項として、領収書を含む交際費の支出に関する証ひょう書類を廃棄する事務処理がなされてきたことは、極めて遺憾である旨の記載がなされていることが認められるが、右要望事項の記載は必ずしも公開請求との関連でなされたものではないこと、右勧告要望がなされた後、本件条例が制定される以前にも領収書の破棄という慣行が行われてきたことからすると、右勧告要望がなされたことをもって、本件条例による公開回避の目的で本件領収書の破棄がなされるに至ったものと推認することはできないというべきである。なお、原告は、平成五年一〇月に会議費の領収書が問題となったことも主張しているが、本件領収書の破棄がされた後の、しかも会議費に関する事情であることからすれば、右事情が本件領収書破棄の意図、目的等の認定に影響を及ぼすものでないことは明らかである。
三 以上によれば、被告の職員による本件領収書の破棄は、服務規律違反の問題が生ずること、あるいは、会計事務処理のありかたについての非難がされることはあるとしても、未だ原告の私的な権利利益を侵害する国家賠償法上違法な行為であるということはできない。
四 よって、原告の請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないというべきであるから、これを棄却することとする。
(裁判長裁判官 秋山壽延 裁判官 竹田光広 森田浩美)